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2018年3月20日 (火)

激辛スーパーミンキーブック1

☆  ミ  ン  キ  ー  モ  モ  制  作  の  過  程  ☆
  1982年3月21日16:55TV東京『魔法のプリンセス  ミンキーモモ』、鮮やかにデビュー!『ミンキーモモ』を手掛けた葦プロはそれまでに『バルディオス』『ゴーシューグン』などを世に送りだしていた。特に『戦国魔神ゴーショーグン』の方はスタッフが『ミンキーモモ』とほとんど変わらない。この頃アニメ界ではサンライズのロボット物や松本零士シリーズなどが栄華を極めていた。

そんな中にあって『ゴーショーグン』は81年7月3日から12月28日までにわたって26話放送された。魅力あるキャラクターとユニークな物語、そして英語をふんだんに取り入れたお洒落なせりふで人気を博したそうだ。この英語を使ったせりふはそのまま『ミンキーモモ』に継承されている。この作品で原作者の首藤剛志と監督の湯山邦彦が出会った。こうして『ミンキーモモ』の土台ができ上がった。首藤剛志はその昔考えていたミュージカル『フェナリナーサから来た男』というアイデアを元にして『ゴーショーグン』の次の作品の構想を練った。当初、魔法物である『魔法の冒険モモちゃん』、ペットショップ物である『ミニーはわくわく気分』の2つの企画があったが、それが1つになって『ミンキーモモ』となったとのことだ。一方TVアニメでは鳥山明原作の『ドクタースランプ』が大人気であった。作画には芦田豊雄率いるスタジオライブが担当していた。彼はミンキーモモを漫画家のみさきのあとアニメーターの服部あゆみがデザインした物を元にして鳥山明の影響たっぷりにキャラクターデザインした。声優には『ゴーショーグン』のレミー島田、『ドクタースランプ』のアラレちゃんという『ミンキーモモ』に深い関係にある作品に主演した小山茉美が起用された。他、ベテランの声優陣がバックを支えた。小山茉美は、はじめ歌のみの参加ということになっていたらしい。スポンサーには玩具業界の王様、バンダイがついていよいよ放送が始まった。魔法の国からやって来たプリンセスが地球の人に夢と希望を取り戻させる物語だ。また王様達が彼女の様子を見守るという形式を含めて『魔法使いサリー』のパターンを踏襲している。

ターゲットはもちろん女の子であったものの、物好きなスタッフが多かったためか色々な遊びがあり徐々に男性ファンを増やしていった。10%の視聴率を確保することも出来るようになった頃、突如として打ち切りが決定する。だが、ファンの熱い要望により再び続行が決まった。時既に遅く最終回を迎えてしまう。その後続けて第2シリーズが始まった。今度は宝石の中の物語を見るという形式をとった。そうして最終回が83年の5月26日に放送されて一時『ミンキーモモ』は姿を消す。全63話だった。
  それから約2年後の85年7月25日にOVA『夢の中のロンド』が発売され、劇場公開もされた。今までのキャラクターが総出演し、また時間も90分とOVAとしてはかなり長いものになった。ただ、モチャー役の木藤玲子が声優を辞めていたためにレギュラーの中にメンバーチェンジが行なわれてしまった。この『モモ』はモモが第1シリーズの最終回前の設定で作られている。大人にならない魔法を使うペーターという少年が作った国が「夢と希望」のない大人達に壊されていくストーリーだ。2年前のスタッフがそのまま各部門を担当し、作画監督には人気の高かった渡辺浩が務めた。更に2年後の87年1月28日ミンキーモモ・ミュージック・ビデオとして『瞳の星座』が発売になった。映像は今までの懐かしいシーンを集めた物でおなじみのサウンドトラックからの曲に合わせて流している。ちなみにスタジオライブが担当したシーンはないとのこと。約4分の小山茉美の新曲に合わせて新映像も披露されている。18才のモモが12才のモモに会いにロケットに乗っていく幻想的なストーリーだ。アニメーターもTVシリーズで動画を担当していた女性群のみで描かれていて珍しい物に仕上がっている。ここで事実上、小山茉美のミンキーモモは終わりを告げている。
  続きを作られる可能性はないと思われていたにもかかわらず、91年10月2日、日本テレビに移って新たに同タイトルでシリーズが始まった。スタッフはほとんど10年前と変化なしで、フェナリナーサの親戚マリンナーサのプリンセスが今度は地球の人に夢と希望を取り戻させる挑戦をしている。原作者、監督はもとより、他のスタッフも旧作とほとんど変わっていない。前TVシリーズで原画を描いていた工藤征輝が監督補佐をし、同じく原画マンだった鶴山修も作画監督を務めることになった。キャラクターデザインには『夢の中のロンド』でも動画を描いていたスタジオライブの富永真理があたった。前TVシリーズと同じゲストキャラが出たり、初代モモが出てきたりして話のつながりが感じられる作品である。後半に入ってモモの住んでいた国が分割されるなど急転回が進んでいる。主題歌には人気DJの小森まなみが起用されたが、後半は2代目のモモの声を当てている林原めぐみが自ら歌っている。92年12月23日、前作より1話少ない全62話で放送終了。
☆  夢  と  希  望  と  モ  モ  ☆
  ミンキーモモは「夢と希望」を地球の人に取り戻させるために夢の国からやって来た。この2つの言葉は英語のHopes and Dreamsからきているように思う。夢とは何か?「睡眠中の幻想」のことをこの物語では指していない。「大人になってからの職業」「おとぎ話や伝説を信じて大切にする」ことの2つである。モモは夢の国からやって来て、大人に変身することができることを考えると、この2つの要素にぴったりはまっていることが分かる。

モモという少女はまさしく夢と希望を運ぶのにうってつけの人物だったのである。さてモモは早速夢と希望を地球の人達に取り戻させようと努力する。それは単なる義務感ではなく、「地球には何て困っている人が多いんだろう、やらねば!」という優しい気持ちから湧き出たものなのだということを忘れてはいけない。彼女は変身する前も、そして変身した後も努力して困っている人逹を助けようとしていた。・・・・ここで大事な点がある。困っている人逹は初めから夢を持った人々なのだ。

ただ、この厳しい現実の前に夢を失いそうになっているだけだ。そんなときにモモは力を貸して、その夢をなんとか守り、ある時は叶えてやるのだ。結局夢を持っていた人達にしかモモの魔法は使えないということか。なぜなら夢を持っていない人には力の貸しようがないからである。そしてモモが力を貸せるのはある程度、実現の可能性が高くて正しい人間にのみだ。夢を叶えるためには現実を直視しなくてはいけない。・・・・・ だが、現実は厳しい。モモはだんだん限界を感じ始めていく。シンドブックの「魔法じゃジョニーの夢に入っていけないんじゃよ」(#43)「何になっても攻撃は止められはせん」(#32)これらのせりふは現実に対する変身魔法の限界を物語っていた。特にジョニーの夢はフェナリナーサの夢とは別の物であるために魔法の力が通用しなかったショッキングな事件であった。夢を持っている人にも力が貸せない。それでは一体何のための魔法なのだろう?

いろんな人達が努力して夢を勝ちとろうとしているのに、モモは一時的にせよ魔法でどんな夢でも簡単に叶えてしまう。とはいえ一体そこにどんな夢があるのか。所詮魔法で一時的に大人になって何かのプロフェッショナルになっても夢を叶えられたわけではない。モモは夢を持って変身したのではなく、そのとき必要だったから大人になったのである。そう、だれかの夢を守るという目的以外意味はないのだ。そこには普通の子供が心に描くような夢はない。
  魔法の限界はペンダントの破壊で頂点を迎える。モモは幻想の世界の人間であって、普通の人間ではないのだ。魔法が使えなくなって普通の女の子の様になっても、この地上では他の人間たちと同じように将来の夢と希望を思い描くことは出来ない。そして彼女はこの世に生きる異端者の定めのごとくある日、街角から現われたトラックという現実に轢かれて死ぬ。彼女の魂はフェナリナーサに帰ることも出来たはずなのにそうしなかった。「どうして私、地球に行ってたのかしら」「あなたが良いことをして誰かに夢と希望を与えることができたらフェナリナーサは地球に戻ることができるのです」「無理だわ、そんなこと。だって夢と希望は自分が持つものでしょ。だれかからもらうものでもあげるものではないわ」彼女は現実に負けたのかもしれない。魔法ではどうしようもないことがあるから、また魔法が必要でない時もあるから彼女は自分が今までしてきたことを否定したのだ。

だが、それだけではない。モモは夢と希望について「夢と希望は自分が持つもの」だという真実に達したからでもある。「私は私の夢を見たいわ。夢の国の私じゃなく、本当の私の本当の夢・・・・」彼女は自分の肉体を失ったとき、フェナリナーサに帰ることも出来たのになぜそうしなかったのか、その答えがこれだ。ミンキーモモという一つの人格が切に自分の現実を見つめてみたいと願ったのではないだろうか。現実で本当の自分の夢と希望を叶えるのは夢の国の人間には不可能だ。彼女の死はどうしても必要なものだった。モモは現実の肉体を持って生まれ変ってきた。この選択は彼女にとって必ずしも楽なものではない。現実の世界がどれだけ厳しいものかは私たちが普段痛感していることである。それでもモモは今まで魔法であっという間に身に着けていたことを今度は自分自身の力で一つ一つ勝ち取っていくだろう。彼女の「私は私の夢を見たいわ」という力強い言葉にいつかモモが夢を叶えることができるだろうという確信を私たちに抱かせてくれながら、この作品は終る。『ミンキーモモ』は私たちに夢と希望を持つことの大切さを教えてくれた。私たちも彼女に負けないように自分の夢を叶える努力をしようではないか!
☆  ア  ナ  ロ  グ  V  S  デ  ジ  タ  ル  ☆ 
  そういえば湯山邦彦が『ミンキーモモ』は『鉄腕アトム』なんだと言っていたことがあった。言われてみれば両者の類似点はあまりにも多くあることに気が付く。まず、コメディ風でもありシリアスでもある。現実の厳しさ、辛さを描いている。アクションがオーバーでパロディも多く、演出も派手である。ついでに絵も似ている。キャラクターデザインをした芦田豊雄は手塚治虫の影響を受けているようだから当然かもしれない。主人公の年令も同じで社会の中の異端者であることも一致している。そして最終回に命を落とす。
原作者が映画好きで基本的にはペシミストな点でも両者は似ているといわざるをえない。バタくさいキャラクター、ディズニー譲りの派手な演出、せりふに一々ギャグが盛り込まれている点。いわゆるこのタイプのことをアナログというのだと思う。『ミンキーモモ』はあらゆる点でアナログ時代の要素を持った作品であるといえる。『鉄腕アトム』から続いていたアナログ時代最後の作品、それが『ミンキーモモ』なのだ。1982年になっていたその頃でもまだ1960年代の『アトム』の影響が残っていた作品なのである。

ただしデジタルとアナログの過渡期にあったわけで、『モモ』は完全にアナログではないかもしれない。それでもアナログ時代の終をここで告げ、デジタル世代にアニメを手渡した役割を果したのである。『ミンキーモモ』の影響もあって作られた『魔法の天使クリーミーマミ』などからはキャラクターデザインに女性を起用したり、演出にも派手さがなくなり、妙なギャグは姿を消してしまっている。何よりまず見た目にきちんとしていて洗練されたイメージがある。この洗練されたものこそがデジタルなのだ。もちろんここから先はデジタル一色の世界であり、一旦終ってから作られた『夢の中のロンド』は完全にデジタル時代の作品になっていて、デジタル化されたモモは妙に歪んでいた。この作品が出る頃までには完全に時代は変わっていたのである。

例え同じスタッフでも時代には逆らえなかったわけだ。自ら作り出した制作者たちは自分たちが作れば前と同じものが作れると考えがちだが、TVのモモとOVAのモモはまるで違うものである。渡辺浩の洗練されたキャラクター達が全編にわたって映しだされ、モモのせりふも妙である。時代の流れもさることながら、ここに至って誰もがミンキーモモってどんな女の子だったか忘れ切っていたのであった。デジタルとアナログの差って何だろう?シンセサイザーでもレコードでも言われることだ。みんな言う。「なんかアナログって暖かいんだよね」
  そうだ。何か暖かくて心地良い、それがアナログの持ち味なのだ。人間的なノリがあって・・・・・ 落ち着いていて。『ミンキーモモ』はそんな作品だった。少なくてもTV版の方はそうだった。念の為に言っておくが、別に物語がホワーンとしているなどといっているのではない。作品そのものが持っているイメージの話をしているのだ。何度もいうようだが、『ミンキーモモ』はアナログ時代最後の作品であり、そして私は最高の作品だったと信じている。モモの持っていた夢と希望もやっぱりある意味ではアナログなのかもしれない。

それでも、そう、古くてもいいものは良い。そして良い物は廃れない、だから『ミンキーモモ』は時代が過ぎ去っても決して見劣りする作品にはならないだろう。それが名作の条件でもあるのだ。
☆  夢  V  S  現  実  ☆
  『ミンキーモモ』の世界では幻想としての夢と子供が将来を描く未来の職業としての夢の2つが混乱していた。子供達は夢見ていた職業にみんな就けるわけでもなく、それが現実は厳しいといわれる所以である。一方科学の進歩は不思議なことを解明していってしまい想像力を減退させてしまう。今では子供でさえサンタクロースを信じていない、それがいい例だ。確かに夢と現実は互いににらみ合っているかもしれない。それでも現実無しには夢は存在しえないのだ。夢は現実という事実ある世界のものから生れてくるのである。

現実があるからこそ人々は想像してこれからの希望やありもしない物をそれぞれ夢想することができる。こうした夢や希望を生み出すいわゆる想像力は人生に対して何の力も持っていないが、人間のこうした夢想する力によっていろんなものは発明されよりよい文明へと発展させていったのだ。また想像する力を持っている者は他の人間の立場を考えることも出来るから、他人に対して理解を示すことができる。夢と希望・・・・・ それは想像力の産物であり、我々人類が生きる限り絶対に失ってはならないものである。だが、現実の世界では確かに夢と希望は失われつつある。それは何もかも決まり切ったものしか目に映らないからだ。お決りのレールしか自分にはないと思ってしまっても無理はないのかもしれない。

だからといって夢と希望を完全に失っているわけではないのではないか。現実という物があんまり厳しいのでただ「どうせ叶いっこないや」と思っているだけなんじゃないだろうか。もし仮にみんなが夢と希望を持っていたにしても全員がそれを叶えることは出来ないに違いない。それでもその夢を見たことで、希望に近づく努力をしたことで人生において大切な何かを見付けられるはずだ。さて『ミンキーモモ』ではどうだったかというと、ゲストに出てきた人達はみんなそもそも夢を持っていたことがわかる。厳しい現実に直面してくじけそうになっていたところをモモに助けられて何とか夢を叶えることができたのである。

ここでのモモの役割は勿論何かのプロフェッショナルになってみんなの危機を救うことだが、同時に彼女は魔法という夢の力を使って現実に逆らっているゲリラでもある。本来なら金持ちの悪役に食い潰されるはずの現実を「ピピルマピピルマプリリンパ」と夢色に染めあげてその現実から救ってしまう。モモには戦っている意識などなかったに等しいと思わわれるものの、そこには現実と夢の世界の少女の戦いが密かに火花を散らし始めていたのだ。
 主人公にはつきものの筈の運の良さ、本来ならモモにもあっていい筈のものだ。にもかかわらず、モモは後半に入ると必ずしも運がいいとはいえなくなってきた。怪獣の事件にしても、アンドロイドの件にしても、雪の妖精の一件でもはじめに見られたような明るさがなくなってきた。その代わり、何か緊迫した雰囲気が番組をたまに漂い始めた。多分観ていた人達も「なんか変わってきたな・・・・」と思ったことだろう。原作の首藤剛志は第2シーズンに出現させた黒雲のことが構想としてあったのかもしれない。(黒雲=悪夢はそもそもの最終回用に考えられた存在だったことを忘れてはならない。)この緊迫した雰囲気はまさしく現実の厳しさだ。段々魔法の力の限界を思い知らされていくモモの前に突然黒雲が現われても不思議はない雲行きになってきたのである。つまり現実の厳しさがいつしか悪夢を生むと考えれば両者は切っても切り離せないものだろう。モモの主人公らしからぬ運の悪さはついに彼女の命までも奪っていってしまう。モモが挑んでいた戦いは初めから勝負が見えていた。
それでも彼女は完全に負けたわけではなく、今度は「夢と希望」を持った一人の人間として現実に戦いを挑んでいくのだ。その勝負はまだ始まったばかりだ。少々話は脱線するが、なぜ初めに2種類の「夢」が混合、ではなく混乱していると書いたのか。ベリリッチのように幻想的「夢」をまさしく見せたパターンがあるし、マック・カレントのように「夢」を叶えさせた例もある。モモのみたかった「夢」とは何だったのか。最終回でフェナリナーサが降りてくるモモの夢を見ているとどちらだかわからなくなるような気はしないか?いずれにせよ、はっきりしないなあと疑問に思っていたからだ。

10年経って作られた新『ミンキーモモ』で解答が得られてしまった。モモは現実を踏まえた「夢」を持っているのであり、幻想的な夢なんかではまるでない・・・・・ とのことだ。「大人になったら・・・・になりたい」ということらしい、かなり信用度に問題はあるが。さて人間に生まれ変ったモモの前に現われた黒雲=悪夢はまさしくモモの心に過った現実に対する不安、そのものだったのではないだろうか。それがああいう形になって現われて夢の中でモモを苛むのだ。「この地上には夢や希望は必要ないのだ、出ていけミンキーモモ!」今までは彼女は他人の夢を守るために戦ってきたのだが、今度は自分自身の夢を守るために現実を脅かすものと対決しなければならない。もちろん悪夢のターゲットはモモ一人。なぜなら悪夢は彼女自身がつくりあげたものであり、そしてこれから自分が大人になって夢を叶えるためにはどうしても倒さねばならない相手なのである。現実の厳しさ。「夢を叶えることができないかもしれない」という恐れと不安。今こそモモは最終回にふさわしく夢の戦士に変身した!自分の夢は自分自身の手で守らなければいけないと思いながら彼女の剣が、ステッキが光りを放って悪夢を滅ぼす。モモは自分の不安に打ち勝った。しかしこれは彼女の夢の中の話であって本当の現実との戦いはまだまだこれからなのだ。

夢が現実に勝つためにはそれだけ強い夢でなくてはならない。人間になったモモにそれだけの夢が持てるのかどうか・・・・・ もしあなたがモモだったらあなたは夢を叶えさせる自信がありますか?
MOMO
MONO
TONO
TORO
TARO
  なおこの『ミンキーモモ』なる作品が非常に『モモ』にふさわしい制作過程をたどってしまったのは驚くべきことだ。「子供に夢と希望を!」と一応始まった番組が丁度盛り上がってきた頃にいきなり打ち切りを言い渡されてしまう。まさしくスタッフにとっては現実の壁が立ちはだかったように見えただろう。それまで自分達の趣味もめい一杯盛り込んで楽しい番組をつくってきたのだから当然だ。まるで地球に夢を与えに来て頑張ってきたモモが突然現実の厳しさを見せつけられた、そんな状況によく似てないか  また放送延長が決定したのもモモが再び人間として復活したのに何か通じるところがある。随分こじつけに聞こえるかもしれないが、逆境に耐えて夢を諦めなかったモモとそのスタッフにはやはり共通点があったのだと私は思いたいのだ。
☆ 『ミンキーモモ』は果たして…… ☆
  はじめ1話ずつ解説していこうかと思っていたのだが、1話1話見ていくとどうしても粗ばかりが見えて仕方ないのでこの形式はとらないことにした。というのも例えば『メガネでチャームアップ』なんかはどう見ても眼鏡が問題じゃなく、結局美人は眼鏡をかけていようと美人だったことを証明したにすぎない。『走れスーパーライダー』も一体ジムルとジムルの親父との諍いはどうなったのか、そしてジムルのパイロットになりたいという夢はどうなったのか全然描かないでさっさと終っている。結構いい加減な話が『ミンキーモモ』には多かったのだ。しかし、私がこれから書こうとしていることに比べたら毎回やっていた話の単なる拙さなどは問題にならないだろう。『ミンキーモモ』の最終回は確かに感動的なものではあったものの、とんでもない事実が実は隠されている。

多分、これを見ていた人の中には気が付いた人もいただろう。フェナリナーサは地球には戻れない。『青い鳥を見た少年』でなぜモモが地球にやって来たか明らかになった。「何々・・・・王家の血を引くものが誰かに夢と希望を見せることができたなら・・・・・ 」

ところが、モモは突然の事故で肉体を失ってしまい、ただの人間になってしまった。詰まり、王家の血は絶えてしまったのだ。たとえ外見が同じに育ったとしても彼女はデイジーがおなかを痛めて生んだ子供であることに変わりはない。彼女の血はロビンとデイジーの血からできている。「モモはわしらの子供じゃなくなったんたダバネ・・・・ 」王様の言葉が悲しく広間にこだました。モモは赤ちゃんになりながらもいつか私が夢を叶えることができたならフェナリナーサは降りてこられるという夢を見ているが、そうだろうか?最早魔法のプリンセスではなくなった普通の女の子が夢を叶えたからといって何が変わる?一方続編小説のように魔法が依然として使えるのだったら一体何のために生まれ変ったのか分からない。

どっちに転んだところでこの最終回はおかしい。更に赤ちゃんのモモはが18才から12才に変身する夢をモモは見ている。おかしい。何かおかしい。この作品、見方を変えると親のエゴで死んでしまう悲劇の少女の物語だ。本当はこちらのほうが真実なのかもしれない。『ミンキーモモ』は果たして ・・・・ 何だったのだろうか。あの最終回が示す本当の意味とは?ただ、考慮に入れておかねばならないことはこの最終回が実はあらかじめ考えられていたものではない点だ。本来打ち切りがなければモモは第2シーズンに出てきた悪夢と戦って戦いに負けはしないもののフェナリナーサは再び千年の眠りにつく・・・・これが原作者の考えていた最終回であった。ところが、いきなり打ち切りを言い渡されて原作者は相当頭に来たらしい。打ち切りが決定した後の怒りの文がアウトのXX号に出ていた。「アニメの時代も寒くなりそうです・・・・」「モモは死ぬしかないなと思った・・・・」原作者はモモを現実に破れた敗北者として葬りたかったのかもしれない。自分が現実という冷酷なものに叩かれたから、モモに対しても同じ思いをさせなければ、と考えたのかも。そして我々に対しても「どうだ!現実ってのはこんなに厳しいんだ」と見せつけたかったようにも見える。一見、夢と希望に満ちて終った『ミンキーモモ』。果たして本当にそうだったのか。あの感動的なヴィジョンに我々はだまされていないか?私が最も言いたいことはこの最終回には原作者である首藤剛志の当時の気持ちが大きく関わっていたのではないか・・・・・ ということだ。

良くも悪くも『ミンキーモモ』は考えさせてくれる・・・・それだけの価値がある作品だ。何かいろいろいちゃもんつけまくったけれどもTVアニメなどというとてもきつい制限のメディアですごく良くやったと思う。この作品は完璧ではないかもしれないが、ここで描こうとしていたことに対する努力と熱意と才能には頭が下がる思いであることも付け加えておこう。
  そもそも『ミンキーモモ』の面白さはもっと別なところにもあったと思う。私の考えたモモの三大構成要素・・・・・ それは1.変なキヤラが多い2.パロディが多い。3.パターン破り。以上である。1に関しては特に説明するまでもなく、おとぎ話大好きのボーマン船長、戦争マニアのボトム大佐、デカイツラーの手下達、熱血過激なデビルクイーンなどなど挙げればきりがないぐらい。ひょっとするとほとんど毎回変人がゲストなんじゃないかと思いたくなる。

2はやっぱり映画でしょう。『博士の異常な愛情』『鳥』『宇宙大作戦』『2001年宇宙の旅』『007』『未知との遭遇』などと、これまたマニアックなお遊びがいっぱいある。3はペンダントが光らないのが4回も続いたり、少女物のはずなのにロボットは出る、怪獣は出る、レースばっかりやってる、そして主人公が壮絶な死を遂げる・・・・。この3つの要素があるからこそ『ミンキーモモ』は面白かったのであり、べつに「夢と希望」について真剣な哲学をぶつけたから面白かったのではない。この哲学の部分は最終回位にしか出てこないし。だから本来の面白さと思われていた点は上の3つの要素に他ならない。そしてマニアックであった。だから普通の人には、とりわけ女の子にはわからない面白さだったような気がする。だから筒井ともみは「そんなに『ミンキーモモ』は面白いと思わない」と語っていたのだ。それは事実だろう。普通の人からすればこの異常な世界は「変なの」と思っても「面白い!」とは感じないんじゃないかと思う。この作品を面白いと思うには結構予備知識が必要だし、そういった意味も含めていささかマニアックな面白さであったことは否定できまい。

果たして『ミンキーモモ』という作品は何であったのか。真面目な哲学作品として人気が高まったのではなく、パロディが多くて変なゲストキャラがたくさん出てきてパターン破りのストーリーが多かったことに人気が集まったのだ・・・・と思うのだが、これは私の考えに過ぎない。もう一つ『ミンキーモモ』が美少女アニメとしての傾向が強かったこともかなり重要なポイントであったとと考えざるをえない。更にモモは常に男性から見た目でしか描かれていないのである。『ミンキーモモ』を客観的に分析するならこの事は無視するわけにいかないだろう。

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